色々かきなぐり

すきな気持ちは100がリミット

赤シャツ

 東京公演、大変お疲れ様でした。

 1公演、ご縁がありました。

 松島聡さんの初舞台、大切にしたいと思い、「観劇した!」「そうちゃん見れた!」「かわいい!」というこちら側のエゴな消費だけで絶対に終わらせたくないと思いながら、観劇にあたり、坊っちゃんを読み、時代背景を知り、土地や言葉について調べ、そこそこに念入りな準備をして臨みました。

 舞台は何回も見れば見るほど理解も深まり、演者の演技も回を重ねるごとに、光が増してゆくのがとても素敵で一種の醍醐味なのですが、今回は1公演のみの観劇なので、率直で簡素な感想しか述べられず、非力なオタクだ…と痛感しています。

 ちなみに赤シャツ原作は未履修ですし、関連文献も触っていないので本当にただの感想とこうなのかなぁという憶測です。その辺はご容赦くださいませ。

 

(全体を通して)

 様々な対比をしながら進んでゆく物語。相手の立場、考えを理解しようとすること、逆の立場の人間について想像をすることの大切さがコミカルに、一方切なく描かれていた。

 つまるところ、自分がやられたら嫌なことはしないようにしよう。他のオタクにも優しくしよう。みんな同じ人間。相手の立場になろう。

 

(キャラクターと物語)

 さておき、人間味のあるキャラクターばかり。坊っちゃんと清以外は登場(多分)。坊っちゃんをキャラクターとして登場させない理由は恐らく他にあるとは思うが、今回は「敵役」の「赤シャツ」が主人公であるため、出してないのはもちろんそう。

 「噂ほど度し難いものはない」というところ、噂に扇動されたと思しき坊っちゃん※を出してしまうことで余白が埋まってしまうような感じがしたので、余白を残すためにも、出してないのかな。みんな、みんな、話せばわかるよ、とは思ったけど、主題はそこじゃないので出てこなくてよかった。『坊っちゃん』の表は幕間のナレーションで補填されているのもよかった。

※原作の『坊っちゃん』を読んでいた中で、誰かに何かを言及したシーンは山嵐との雪解けしかなかった気がする。赤シャツ(教頭)や野だいこ(吉川)については全て憶測で直感的に動いていた気がする。気がするばっかり。

 

 赤シャツ最後のシーン、心が痛んだと同時にこの時代に対する警鐘にも捉えることができる。赤シャツのセリフの途中に、確か「こんな人間が増えていく」的なことを言っていた。

 

 こんな人間、つまるところ【ずる賢い】。徴兵忌避という利益のために元蝦夷地の北海道へ戸籍を移した【赤シャツ】、自分の地位という利益のために教頭に取り入ろうとする【野だいこ】、自分が好きな人と付き合うという利益のために周りに根回しをして噂を吹聴する【マドンナ】、面白おかしく有る事無い事記事を書あて話題を作る【新聞記者】。

 対比で描かれていた【真っ直ぐな人間】。うらなりのために野だいこを叩きつけたり、誰かのために動く【坊っちゃん】、間違ったことは間違っていると物怖じせずに主張ができる【山嵐】、心がきれいな【小鈴】。

 

 50年100年経ったら、何らかの利益を優先する人たちが増えることに対して赤シャツは自虐の意味を込めて「嫌になる」と小鈴に訴えていた。小鈴はそんなことないよと自分の主観を交えずに、「そんなに長くは生きていない」と事実だけを伝えたところが大変よかった。

 赤シャツは「堀田くんや坊っちゃんのような古典的で真っ直ぐな人の仲間になりたい」、「堀田くん(山嵐)は心の友」のような主旨の発言もしていた。そこを見ると自分はこの先淘汰されてもよいから、真っ直ぐに生きてみたかったという切なさ、一方で立場や家柄上、守らねばならないものが多く自分の意思とは反して利益を優先せざるを得なくなり、八方美人になってしまったやるせなさが読み取れ、大変心苦しい。

 全てを聞いてしまっている(…?)ウシには弱みを見せることができるだけまだそこは救いなのか…と思った。ウシ以外、家族の武右衛門に対してでさえも、虚勢を張り続けざるを得ない赤シャツは周囲から見れば、家柄も立場も勝ち組、官軍であるが(服の色も相まって※錦の御旗の赤?)、当の本人はおそらく賊軍のように感じざるを得ないのかな…。そんなことを考えながらの観劇でした。

 

 ところで、この話の中に1人特異な子いましたよね。松島聡さんが演じる武右衛門くん。 

 この子は1人だけどちらの要素もあると思った人物。もしかしたら1番難しい役どころだったのかも。

 幼い頃に自分が理想とする兄を信じ続けた実直さと何かを画策したいと思う若干のずる賢さ。おまえだったんか……!と思うところもありつつ、でもどちらかと言えば真っ直ぐな人間側。

 中学生特有の子どもにもなりたくないけど、大人にもなれない、あの青さと危うさが表情と体全てで表現しきっていて、あの板の上には確かに「役者松島聡」が「演じていた」のではなく、「武右衛門」が「生きていた」。あの連続ドラマでホスト役をやった、同じ人間なのかさえも分からなくなった。正直混乱した。

 あれは一種の「神懸かり」にも感じられる。役に憑依というか引き寄せるというか。そんな才能って与えられるべき人間に与えられ、開花していくんだなと思った。